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最終更新日:2011年7月15日
笠卒塔婆は、南北朝時代の延文(えんぶん)元年(1356)に造立された。
塔身の高さ135cm、幅30cm。笠は損失し五輪塔の空風輪と火輪で補い、総高は220cmである。
銘文が四面にあり、上部に梵字(ぼんじ)、下部に年号や造立の趣旨を刻銘し、心阿弥(しんあみ)などの法名から時宗(じしゅう)の信仰がうかがえる。
阿(あ)・吽(うん)の相をした一対の狛犬。
木彫の寄木(よせぎ)造りで、表面に布を張り漆塗りされている。
特色は巻毛の巻き方と擬宝珠(ぎぼし)にみられ、形式化された彫り方は室町時代の作風を示す。
白山(はくさん)神社の拝殿に置かれたものといわれ、現在は眞光寺本堂に納められている。
眞光寺境内の万日堂(まんにちどう)かたわらの鐘楼にある。
万治(まんじ)3年(1660)、中尾村(高崎市)の金井五郎右衛門によって鋳造された。
鐘高74.4cm、口径60cm。銘文から眞光寺20世*ちょうじんの代に、檀信徒や寺僧の喜捨(きしゃ)によって造られたものである。*ちょうは大の下に周の字、じんは言べんに甚の字
小栗上野介(1827~1868)は幕末期の旗本で、勘定奉行などを歴任した。
日記2冊は、慶応3年(1867)分と翌年に烏川で斬首される4日前までのもの。大名や名士の往来の状況が記されている。
本殿は間口3間、奥行2間の流(ながれ)造りで、妻部の組み、手挟(たばさ)み、海老虹梁(えびこうりょう)、こぶし鼻、懸魚(げぎょ)などに江戸前期の建築の特色が見られる。
ことに手挟みは他に見られない貴重なものである。海老虹梁は真直ぐで古い型である。なお、拝殿と幣殿(へいでん)は明治末年に造られている。
この塔は総高150cmあり、基礎が二間になっている関東型式で、基礎と塔身の間に中台を設けた異型の宝篋印塔である。
銘文に康永(こうえい)2年(1343)源義秀の供養のため造立したと刻銘されている。
現在地には寛永年間に下金井の薬師堂から移転したと伝えられる。
三国街道が吾妻川を渡る南牧(なんもく)に、元和(げんな)年間番所として置かれ、寛永(かんえい)8年(1631)に関所に改められた。
初め安中藩が、後に高崎藩などが預かり、目付1人・与力2人と定番(じょうばん)3人が勤番した。佐渡奉行・新潟奉行・越後の諸大名や旅人がこの関所を通行した。
芝渓は寛延(かんえん)3年(1750)に渋川村に生まれ、北牧(きたもく)村の山崎石燕(せきえん)に儒学(じゅがく)を、さらに昌平黌(しょうへいこう)や平沢旭山(きょくざん)に学んだ。
後に弟の翠屏(すいへい)らと芝中の地5ha余を開拓、そのかたわら門弟を教育し渋川郷学(きょうがく)の祖と呼ばれた。「養蚕須知(ようさんしゅち)」など著書も多い。文化8年(1811)62歳没。
この古墳は、7世紀末の横穴式石室をもつ円墳で、6世紀中頃に降った軽石層の上に築かれている。玄室(げんしつ)は長さ3.1m、幅1.3~1.45m、高さ1.9m。
角閃石(かくせんせき)安山岩の切石で精巧に築かれている。石室は玄室と前庭部(ぜんていぶ)だけで羨道(せんどう)のない珍しい形である。
藍園は文政元年(1818)渋川村に生まれ、木暮足翁(そくおう)・高橋蘭斎(らんさい)・僧周休(しゅうきゅう)に儒学・漢詩を学んだ。
紺屋(こうや)のかたわら塾を開き、門弟より多くの地方指導者が出た。維新に際し前橋藩から総長・村童教授などに任ぜられ、民政・教育に貢献した。明治24年74歳没。
この遺跡は、8世紀後半の溶鉱炉と炭窯からなる製鉄遺跡である。
炉の規模は長さ90cm、幅55cm、壁高40cmで南東に開口し、炉形は隅丸長方形の竪型炉である。
炭窯が5基あり、その窯で焼いた炭と川で取れる砂鉄を溶鉱炉に入れて銑鉄(せんてつ)を造っている。
この遺跡は、榛名山(はるなさん)の5世紀末の噴火による火山灰で埋没した古墳時代中期の集落遺跡である。
竪穴住居、平地建物、畑、垣根、祭祀(さいし)などの遺構がほぼ完全な形で保存され、当時の人々の暮らしを解明できる日本版ポンペイ遺跡である。
中村の早尾神社の社殿前にあり、神木となっている。
根元周り11m、目通り周り7.3m、樹高19m、枝張り東西26m・南北22mである。
平成8年、幹の空洞化が進み危険なため、主幹9mで切り、幹を治療し樹勢を持ち直す。樹齢およそ600年といわれている。
堀口藍園墓地にある。根元周り14m、目通り周り8.7m、樹高11m、枝張り東西12m・南北14mである。
昭和38年までは樹高27mもあったが幹の空洞化が進み、主幹9mで切られた。その後、幹を治療し樹勢を保っている。樹齢およそ600年といわれている。
天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、川島村が浅間押し(泥流)で流され、113人の死者、約54haの田畑を失った。
この大きな浅間石はその時のもので、大きさは東西15m、南北9.5m、高さ4mである。なお、この地域には浅間石が点在している。
この樹は「芋種桜(イモタネザクラ)」と呼ばれ、花が咲く頃、里芋(サトイモ)を植え付ける。
根元周り6.2m、目通り周り3.4m、枝張り東西17m、南北14m、シダレ枝の最長5m、樹高は12mである。
シダレザクラには紅と白の花があるが、これは白色である。樹齢およそ400年といわれている。
この樹は根元から東西2幹に分かれ、東幹は目通り周り2.1m、樹高約9m、西幹は目通り周り2.2m、樹高約10mである。
両幹ともに空洞になっているが、治療し樹勢が回復してきた。ヤマグワ系統の雄木で、樹齢およそ400年以上といわれている。
キンモクセイは、常緑広葉樹で中国原産、日本には雄木しかない。
主幹根元周り2.7m、地上80cmで5支幹に分かれる。各支幹周りは82cm~1.1m。樹高8m、樹冠東西8.6m、南北9.3mである。
樹齢およそ260年といわれ、国内でも最大級のものである。
この塔は総高191cmで、基礎と塔身との間に中台と中台を受ける石があり、屋蓋(おくがい)を二段に重ねた異型の宝篋印塔である。
銘文は正面に沙弥光専敬白(しゃみこうせんけいはく)、側面に観応(かんのう)2年(1351)3月13日とある。屋蓋四隅の隅飾(すみかざ)り突起は垂直で、南北朝時代の特色を表している。
薬師は総高117cmで、石堂の基礎に文安2年(1445)檀那心仙(だんなしんせん)とあり、室町期の薬師信仰がうかがえる。
塔身の四面に8体の仏像と華瓶(けびょう)が浮彫りされ、内部には薬師如来が祀(まつ)られている。向拝(こうはい)部は元禄(げんろく)3年(1690)石原村大島四郎兵衛が奉納したものである。
本殿は一間社流(いっけんしゃながれ)造りで、柿葺(こけらぶ)き総桧(ひのき)造りである。
文化14年(1817)に青梨子(あおなし)村(前橋市)の棟梁桜井丹後正(たんごのかみ)、半田村の宮大工山口利根七・阿久沢宗左衛門らによって造られた。本殿の彫刻はみごとで、この時代の特色をよく表している。
承応(じょうおう)3年(1654)、渋川宿の「二(に)・七(しち)の市」の商人75名と取り引きする商品名(座)が記されている。
上ノ町(2・17日)、中ノ町(7・22日)、下ノ町(12・27日)と交互に市を開き、山地と平地の産物を取り引きした市の構成が分かる。
この塔は総高114cmで、永享6年(1434)の年号があり、室町時代の形をよく表している。市内で年号を刻む五輪塔6基中、最も古いもので、水輪に梵字(ぼんじ)が刻まれている。
この塔の隣に延徳(えんとく)4年(1492)の宝篋印塔もあり、今成氏祖先の墓碑と伝えられている。
眞光寺境内の万日堂(まんにちどう)北側墓地にある。
基礎・塔身・笠が一石で造られ、総高150cmである。中央に像高50cmの地蔵菩薩の立像が、厚さ10cmで浮彫りされ、笠部に鬼面(きめん)が彫られている。
銘文によると、寛永18年(1641)常玄(じょうげん)・成南(じょうなん)の供養のため建立された。
義範(ぎはん)は宝暦(ほうれき)2年(1752)70歳で眞光寺37世となった。宝暦10年にここ龍雲庵(りゅううんあん)に隠居し、間引きと称する悪習を戒め、死去5年後の明和3年(1766)にその徳を慕う人々により、この地蔵尊は建てられた。半肉彫りの赤子を抱く石像は、光背(こうはい)を含め約1mである。
この地下牢は金井宿本陣跡にあり、江戸時代中期の構築と推定される。
広さ約12平方m、高さ2mの地下牢で、壁は石積構造、南壁に小窓を設けている。
天井は栗材が使用され、牢の入口には高さ1.65mの石の扉が左右に取り付けられていて、堅固な造りである。
片品村出身の千明慶悦(ちぎらけいえつ)が安政(あんせい)3年(1856)、北毛(ほくもう)の門弟60余人の協力を得て奉納した。
慶悦は北牧(きたもく)などに住み和算を教えた。
額面は、直角三角形の底辺の長さを求める問題を代数を用いて解答している。額の大きさは縦80cm、横190cm。当地における和算の流れを示す。
明暦(めいれき)2年(1656)に入沢五右衛門らにより寄進された鐘。
中尾村(高崎市)の金井五郎右衛門によって鋳造されたもので、鐘高65cm、口径39.5cm。
乳(にゅう)の間は4段4列で4間あり、池(いけ)の間には39行345字の庚申(こうしん)信仰の銘文が刻まれている。良珊寺の本堂にある。
天正(てんしょう)10年(1582)6月22日、相模(さがみ)国小田原の北条氏が出した禁制である。
上野国に進攻した輩下の軍勢の乱暴狼藉(らんぼうろうぜき)を禁じ、あわせて戦乱によって村を離れた祖母島(うばしま)・川島の住民に帰住を呼び掛けたもの。
北条氏の虎の印が押された典型的な戦国文書である。
この住宅は、旧入沢柳太郎家を昭和54年に渋川八幡宮境内へ移築復元した。
江戸時代初期(17世紀)の開口部が少ない農家造りの古い特徴を残す貴重な建造物である。
入沢家所蔵の文書には、天文(てんぶん)13年(1544)の入沢氏落着(らくちゃく)状など貴重な資料が残されている。
この像は、祖母島(うばしま)自治会館西の観音堂にある。地元では鰐口(わにぐち)観音と称し、秘仏として信仰してきた。
室町時代の作で、割矧(わりはぎ)造り素地(そじ)仕上げである。総高108cm、像高73.4cm。台座、衣、頭髪には彩色の跡が見られ、円満な面相の口元に細いひげが描かれている。
雲版は主に禅宗寺院で、合図のために打ち鳴らす器具である。
これは半田字剣城の畑から発見され、青銅製で大きさは縦33.8cm、横33.2cm。
雲形状から南北朝の作と推定される。現存する中世の雲版は非常に少ない。なお、出土地は中世城館址である。
この獅子舞は、古くから川島の諏訪神社に奉納された神事である。
雄獅子(おじし)・雌獅子(めじし)・子獅子(こじし)と添役(そえやく)に天狗やおかめが加わり、囃子(はやし)・謡方(うたいかた)の構成で演じられる。
保存会により継承され、毎年10月9日の甲波宿禰(かわすくね)神社の祭典で両社に奉納されている。
この獅子舞は、行幸田(湯上(ゆのうえ)村)中筋(なかすじ)にある東西二つの諏訪神社に古くから奉納されていた。
諏訪神社が甲波宿禰神社に合祀(ごうし)された後は同社に奉納(4月)され、五穀豊穣などの祈願がなされている。舞は3頭の獅子と、カンカチなどで構成され、棒術も演じられる。
猿田彦神社(お庚申(こうしん)様)に、毎年第2庚申の日に奉納される神楽である。
天の岩戸開きの舞など、神話を劇化した36座からなる神代舞(じんだいまい)である。
明治17年、総社神社(前橋市)の神楽を伝授された。なお、この日は植木市などが開かれ、にぎやかである。
この神楽は、大正11年に桃井(もものい)村(榛東村)の舞師より指導を受けて神楽講を発足した。
舞は、須佐之男命(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治など男舞21座・乙女舞15座の計36座である。
出雲系の影響を受け、それに工夫を加えた神楽で、毎年(4月12日)諏訪神社に奉納されている。
市指定重要無形民俗文化財 渋川祇園囃子は、笛、太鼓、摺鉦(すりがね)の三拍子によって構成されている。特に梅の木を素材にして製作した大笛での演奏は、渋川山車まつりを最高に盛り上げ、独特の情緒を醸し出すことで、市民に親しまれている。古来より先人から伝えられてきたお囃子の演奏技術をしっかりと守り、梅笛製作の技術を習得させて後世に残すため、若い人たちにその伝統と文化を伝え、後継者を育て継承している。
佐渡奉行街道の八木原宿南の三叉路にあり、天保(てんぽう)4年(1833)に建てられた。
自然石で塔身の高さ133cm。県内の榛名や妙義、近県の日光や善光寺、さらに伊勢、京都、大坂、讃州金毘羅(さんしゅうこんぴら)への道のりが刻んであり、近世末期の庶民の信仰と旅の広がりを示している。
この古墳は、軽石層を切り開いて造られた7世紀末の円墳で径14mである。
石室は横穴式で、玄室(げんしつ)は長さ2.3m、幅2.0m、高さ2.1m。
石室への入口に当たる羨門(せんもん)と玄門に切石が使われ、どちらも精巧に造られている。玄門には閉塞(へいそく)の扉石が2石残されている。
この遺跡は、渋川市で最初に大規模な発掘調査が行われた記念碑的な遺跡である。
縄文時代の前期・中期・後期の集落跡、弥生時代の円形周溝墓(しゅうこうぼ)、古墳時代の5世紀後半の初期古墳群、奈良・平安時代の集落など、豊富な遺構と遺物が発見されている。
足翁は寛政(かんせい)元年(1789)渋川村の馬問屋に生まれ、吉田芝渓(しけい)、僧周休(しゅうきゅう)、屋代弘賢(こうけん)に漢学・漢詩・国学を学んだ。
私塾を開き多くの門弟を養成し「横町の先生」と呼ばれた。
のち医学を華岡青洲(せいしゅう)や高野長英(ちょうえい)に学び、天然痘(てんねんとう)の予防接種も行った。文久(ぶんきゅう)2年(1862)74歳没。
蘭斎は寛政11年(1799)渋川村に生まれ、木暮足翁(そくおう)に和漢を、さらに大寂庵立綱に和歌を学んだ。
農家で馬問屋を兼ね名主も努めたが、医師を志し江戸へ出て、宇田川榕庵(うだがわようあん)に蘭医学を学び帰郷、医業のかたわら塾を開き、多くの門弟を養成した。明治15年84歳没。
この墓石は、大島式部信忠(しきぶのぶただ)などの4基で、寛永20年(1643)から延宝(えんぽう)元年(1673)までに造立された。
総高263~198cmで、江戸時代前期の農民層の墓石としては大きく、この地方では例をみない。信忠は安中城主井伊氏に仕え、渋川村他4か村の支配を委ねられた。
積保は享保(きょうほう)20年(1735)に金井村に生まれ、家業の宮大工となった。
明和年間に京都で占部(うらべ)氏に学び、豊後守の称号が与えられた。
大棟梁(だいとうりょう)として妙義神社総門や伊勢崎市の宝幢院(ほうどういん)本堂など社寺を建造するかたわら多くの門弟を養成した。天明3年(1783)49歳没。
この塔は、眞光寺境内の太子堂前にある。安政3年(1856)に造立された総高250cmの塔である。
塔身に聖徳太子孝養像と、渋川村の髪結(かみゆい)武蔵屋梅八の座像が刻まれている。
髪結職人を壱銭職とも呼び、この人たち100人により建てられた。信州高遠(たかとお)の石工(いしく)の作である。
赤ナンテンの類で株立周りは1.3m、その中に15本の株があり、太い株周りは20cmもある。樹高4.6m、枝張り東西3m・南北2mである。
金蔵寺44世亮覚(りょうかく)和尚の代に植えたと伝えられ、樹齢およそ170年といわれている。
軽石層は、榛名山の寄生火山である二ツ岳付近の噴火(6世紀中頃)により、偏西風で東北方向に堆積分布した。
この総合公園内の軽石は厚さ3.5mである。建築用ブロックの材料に使用される一方、噴火による災害の様子や遺跡発掘の時代判定に役立っている。
天明3年(1783)の浅間山大噴火の際、中村が浅間押し(泥流)で流され、24人の死者、約51haの田畑を失った。
この大きな浅間石はその時のもので、約800m南で発見され移築復元したものである。大きさは東西11m、南北10m、高さ4.6mである。