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最終更新日:2010年12月17日
国指定史跡 黒井峯遺跡は旧子持村地区のほぼ中央にある子持中学校の高台に位置しています。この高台は海抜250mで、台地の広さは約15万平方メートルあります。昭和57年1月に初めて発見されて以来、寒さの最も厳しい冬に6回の発掘調査が続けて行われ、古代の村跡のうち約3分の1ほどが発掘されました。村の時代は1400年前頃(西暦500年代半ば頃)で古墳時代後期にあたります。この遺跡の特色は2mも堆積した軽石層に覆われた災害遺跡であると共に、軽石層が古代の地表面や建物を長い年月保存している点にあります。このため軽石を取り除くだけで村のあらゆることがわかるという全国にも例の無い遺跡となっています。
県指定重要文化財
白井城主長尾昌賢(景仲)は、15世紀前半(室町時代)の武将で、関東管領上杉憲実に仕え、白井城を本拠に関東一円に威勢を示していました。昌賢は渋川の真光寺を保護するとともに、月江正文を開山として雙林寺を建立、寛正4年(1463)、76歳で没しています。木像の高さ1mあまり、桐材の寄木造で麻布を張り漆をほどこし、胡粉その他の顔料で彩色されており、昌賢老将の姿をあらわしています。製作年代は戦国あるいは、桃山時代と推定されています。
※見学する時は寺の人にことわってからにしてください。
県指定重要文化財 この山門は間口3間(7.0m)、奥行き2間(3.8m)の楼門で、和様を主体として唐様を加味した折衷様式です。屋根は入母屋造銅板ぶきです。上層内部に釈迦如来、十六羅漢の像が安置されています。階下通路の直上に配されたかえる股は内部に宝珠3個を配し肩を張った見事なものです。細部の手法により江戸時代初期に作られたとみられています。
また、本堂の裏に長尾氏累代の墓と称する石塔もあります。
県指定重要有形民俗文化財 旧子持村地区の白井・吹屋地区一帯は、中世以来鋳物師集団が活躍した土地として知られている。阿久澤家はその伝統を引き継いだ鋳物師で多数の古文書や鋳物製造での資料をたくさん保存していた。総数1872点を数える。とりわけ鋳物製造に関しては豊富にあり、古いものでは安永7年(1778)に作られた「源空寺の梵鐘」(村指定)製作に用いられた挽き板が残されている。このほか江戸時代から昭和まで作られた様々の型や道具がある。作られた製品には半鐘や仏具、日常生活の鍋・釜、農具の刃先など多数製作していた。
県指定史跡 雙林寺(そうりんじ)門前のこの塚は、白井鳥酔の分骨塔であるとともに句碑でもあります。俳人鳥酔は、上総国(千葉県)で旗本知行所の郷代官をしていましたが、家督を弟に譲り、低調になっていた俳壇を救うため柳井門に入り、師とともに活躍し、天明俳諧復興のさきがけとなった人です。明和6年(1769)、69歳江戸で没しました。その五七日に集まった高弟が、師の遺歯を分けあって、師と深い関係にあった土地に供養することを約束しました。その1つが旧子持村地区に建てられたものです。建てた人は、春秋庵白雄と地元の俳人です。
県指定史跡 この古墳は傾斜面に築かれた円墳です。榛名山二ツ岳の爆発による火山灰層と軽石層にはさまれていて6世紀初めに築かれ、中ごろまで使用されたと思われます。規模は、墳丘径9m、高さ1mです。入骨5体、直刀2口、銀製装飾金具、鉄鏃、玉類などが出土しています。
県指定天然記念物 大字横堀乙992(神社総代)大山祇神社の境内、社殿の裏にあります。目通り約3.2m、根元の周囲4.3m、2本のエノキ、2本のスギ、1本のイチョウにからまり、高さ約21mに達しています。棚につくれば1,500mにもなるといわれています。
花穂もまことに豊かで、開花期の美は壮観であり、樹齢は約250年、横堀宿のシンボルである。社殿の建立は、寛保3年(1743)年で、この年の横堀宿の大火やその後の火災にも難を逃れて、現在に至っている。
県指定天然記念物 雙林寺庫裏の東にあるこの樹は、目通り約5.2m、根元周囲6.4m、高さ約24.2m、枝張り東西18.5m、南北20.6mで樹勢さかんなカヤの巨木です。寺伝によると、このカヤは、文安4年(1447)開山した月江正文が入山したとき持参した「カヤ」の数珠の一粒から実生したものといわれています。「開山のつなぎカヤ」といわれ、その実にはどの実にも糸を通したような小さな穴があいているので、雙林寺の七不思議の一つとされています。
県指定天然記念物 本堂の裏にあるこの樹は、古い切り株からひこばえがでて生育したものといわれています。根元は1本に結合していて、その株から、10数本の支幹が叢生しています。支幹は1.5m以上が1本、1.2m内外が2本、0.9m内外が9本、0.6m内外が2本、0.4mが1本です。全体の根元の周囲は約6m、全体の高さは約12mあります。これも雙林寺の七不思議の一つとされています。



文化8年(1825)の製作で作者は根本常南、菅井梅関である。横1丈8尺(5.5m)縦1丈3尺(3.9m)の大型の涅槃図で、大型のものは他に京都東福寺にみられるだけである。図中には釈迦がすべての煩悩を去って死に、それを取り囲みすべての生き物の悲しんでいる状態が描かれ、その色彩や大きさ、構成等すぐれたものである。
師弟が精魂を傾け描いたその時、猫が画室に毎日来てそこを去らなかった。常南は戯れに、汝もまた大涅槃に縁を結びたいのかという。ついに画中にこの猫を描きいれたといいます。涅槃図は百鳥百獣ことごとく来集するが、ただ猫だけは魔獣といって描かないのが普通ですが、雙林寺の涅槃図だけは例外です。
市指定重要文化財 高さ140cm、口径76.5cm、龍頭30cm、笠高12cm、駒爪高7cm、厚さ5cmを測る。乳は5段5列で4間にあり、縦帯に1段2列を配し、108個の乳が付けられている。鐘身は直線的で極めて力強い感じを受ける。銘文は池の間の2間にわたって彫り込まれている。製作は白井の住人太田氏と下野国の住人丸山氏の鋳物師によって安永7年(1778)に作られたものである。
第15世住職乗阿至真の願文もあり、この鐘の鋳型の道具が今でも吹屋の阿久澤家に保存されている。
この梵鐘は第2次大戦中の供出に際し、地元の鋳物師が製作したということで供出を免れ現存しているものである。
なお、源空寺の鐘楼自体は愛知県岡崎市にある徳川家康の菩提寺である大樹寺のものを模倣したものとして伝えられている。


朱印状とは、花押(自筆で書いた印)の代わりに朱印をおした公文書で、江戸幕府が社寺に朱印状を下げ渡し、その所領を確認したものです。将軍の交替があると、その年の9月11日を期日として、江戸へ持参し、寺社奉行所に出頭すると、祐筆が前状と同じく記述し、側用人が将軍の朱印をおして下げ渡しました。「御朱印」の札を立てたお駕籠で道中を歩き、一般庶民は失礼のないよう振舞ったといわれます。
旧村内で朱印地をあたえられた社寺は、子持神社二十石、雙林寺三十石、源空寺五十石がありますが、朱印状は明治政府に返還したので、残っていません。上意下達の支配体制が分かる重要な書状は、北群馬、渋川地区で空恵寺一カ所です
市指定重要文化財 学問の神様として有名な天神様は中郷田尻にあり、毎年1月25日と10月15日が例祭日である。
例祭日には、合格祈願のお守りを求める人が訪れています。
本殿は、和様唐様折衷様式の一間社流造で、棟札によると、貞享3年(1686)に建立されたものとみられています。
300年前に建てられた旧村内最古の神社建築は、改造や破損も少なく17世紀後半期の地方神社の様式を知る上で建築史上、大変貴重なものです。
市指定重要文化財 雙林寺の木喰仏は、背面の墨書から聖観世音と思われます。享和2年(1802)11月17日木喰上人85歳の時の作です。木像の高さは62.5cm(台座15cm、像44cm、光背3.5cm)で材はイチョウの木を用い一木彫刻で微笑相(笑っているような)の独特な表現で製作されています。
木喰上人は、享保3年(1717)山梨県西八代郡吉関村丸畑に生まれ、22歳で沙門となり大願をたて、念願の千体仏彫刻と遍歴に生涯をかけた。はじめ僧名を行道、後に五行、最後に名満といい、45歳の時に常陸の人観上人から木喰戒をうけ、南は九州から北は北海道まで各地を巡錫(僧が各地をまわって教えを広めること)、六十六部と呼ばれる回国聖で、常に荒廃した寺や名もない堂や庵に泊まり、四季を通じて単衣を着て五穀を食べず、火食もせず衆生の病苦を救うという法の道に打ち込んだといいます。93歳で没した。
市指定重要文化財 厨子は、本尊を納めるケースであり間口、奥行とも一間、間口は約70cmあるので二尺の大きさとみてよいです。奥行きは45cmなので背後が切りつめてあります。そこで正面から見ると方形のように見える屋根も、背面が切り落とされた状態です。来迎柱は丸柱、扉は格子戸(一部板張り)で両開き。組物は中央に板ひき股、丸柱の柱頭には台輪を載せ、二手先の斗組で桁を支えています。屋根及び周囲は板を使い軒廻は二重垂木の外観を持っています。屋根には簡素な木製の宝珠を載せています。
製作年代はかえる股(蛙股※)や木鼻のデザインから江戸時代初期の製作と思われます。この厨子は古いが、全体的に簡素な建築的厨子といえます。
※かえる股(蛙股)・・・二反の布を一つに連ねて両端から巻いた形
市指定重要無形民俗文化財 明治中頃に神主の千明利三郎によって伊勢より習い伝えられ、神明宮を中心に講を組織し神楽を広めた。流派は大和流と言われている。活動は、明治大正を通じ、利根郡、勢多郡の神社から依頼され、広く行っていたが、現在は神明宮と子持神社に奉納している。
文政年間頃に、地元(直松)の古老が勢多郡北橘村南室に伝わる太々神楽を伝授され、諏訪神社への奉納や五穀豊穣、氏子の繁栄を祈願。現在では諏訪神社、子持神社で行われている。
市指定史跡 墓所の面積は約26mで、三基の墓石が配されている。中央の兜幅型墓碑「全性院殿前越州大守玉岸道楚大居士神儀」とあるのが広孝の碑であり、塔身1.8m、全高3.06mである。向かって右側の「長寿院殿誘誉宗引大姉霊儀」の碑が、広孝夫人の墓で、文禄2年(1593)6月12日と没年の月日が刻まれているから、広孝より3年早く亡くなっている。碑の全高2.27mである。左側の宝篋印塔が、最後の白井城主であった本多紀貞の墓塔で、法名は「源光院殿前備州然誉宗廓大居士」と刻まれている。塔の全高は2.05mである。
本多氏は、三河以来の徳川の譜代で天正18年(1590)8月に本多広孝親子は白井領二万石を賜り白井城に入ったのである。このとき広孝は64歳、康重は37歳働き盛りであった。広孝は京都知恩院を本寺とする浄土宗源空寺を建立している。白井在住7年目の慶長元年(1596)12月27日に70歳でこの地で没している。嗣子康重は慶長6年(1601)2月に三河国岡崎城に五万石を賜り移封となった。元和4年(1618)3月5日康重の二男紀貞が三代目城主となるが、在城5年にして寛永元年(1624)4月26日44歳で死去、紀貞は嗣子なく跡継ぎがなく白井城は廃城となった。このため広孝公らの菩提を弔う者がなかったが、正徳5年(1715)に広孝120回忌にあたり、広孝5代の孫助芳(信濃飯山城主)が墓所を建立した。
市指定史跡 空恵寺裏山にあり、宝篋印塔型17基があり、その内数基を除いて白井城主長尾氏累代の供養塔が整然と置かれている。台石の上部は長い年月を経ているため倒壊や積み替えが行われて元の位置を保っているかはよくわからない。ただ長尾景仲(昌賢)、景春(伊玄)、白井の局(妙薀)等の台石は確認することができる。
以上の墓及び供養塔は、中世の武将長尾氏のもので白井城と共に本村の中世史を語るものとして極めて重要なもになっています。
市指定史跡 この碑は、天明3年(1783)の浅間押しの被害から立ち直った教訓と幕府勘定吟味役根岸九郎左右衛門の救済措置により立ち直った恩恵を忘れないよう、佃村福増寺金峰和尚の提唱で北村の老人たちが相談して、浅間押しから47年目の文政12年(1829)に建てられたものである。特に本村の浅間押しの被害の状況と、江戸時代の民政の一端を知る上で貴重な資料である。
後世、平民宰相といわれた原敬が、20歳の頃、旧三国街道を中山から通過の途中、この碑に注目し日記に書き留められている。
碑の高さ2.3m、幅1m、厚さ40cmの安山岩に刻まれている。
市指定史跡 城下町白井に通じる中の坂をくだりきった水路のかたわらに、高さ170cmで38cm角の道しるべが立っています。道しるべとしては大きく題字も達筆で堂々としています。松原の道しるべとは対象的です。道しるべにしたがって、町を北へ進むと沼田城下へ、中の坂を上がると草津道、南に行き渡屋の渡しから八崎を経て、日光、江戸道に通じています。
往時の白井町は、近郷近在だけでなく諸国から旅人が通過した、交通の要衝でした。白井町が地方核心都市として栄えたことは、現在も残る城下町の景観や、町割等で知ることができます。
市指定史跡 鯉沢交差点を東に向かい、吹屋地区に入り白井城跡へ向かう四ツ角の北側に、高さ90.5cm、幅30cmばかりの角柱道標が自然石の台上に立っています。
頂部は四角錐で一番と記してある。「右ぬまた双林寺道」「右まいばし、おほご道」と前橋を「まいバ志」と方言の発音のまま標記し「左ゑちご、吾妻道」裏に、「嘉永三年庚戌六月吉日念仏講中」とあります。
いまは、ほとんど旅行者の姿が消えた古道に転変の懐古がしのばれます。
市指定史跡 北牧の高才に、横堀方面から来た道が左右に分岐する三叉路に、この石仏の道しるべがあります。
高さ60cm、幅40cmばかりの本体が北向きに台石の上に据えられています。荒削りの舟形光背の中央に、半肉彫りの仏体が浮きぼりになっています。
仏の右に「右江戸道」と草書体で刻まれ、左には「明和三丙戌四月吉日同行八人」が拓本によってやっと判読できます。「右江戸道」とあるのは、鍛冶谷戸へくだるこの細い道が高崎で中山道と合して江戸へ通ずる三国街道であることを示しています。越後から三国峠を越えてきた人たちに、横道にそれないよう江戸への一方向だけを指した珍しい道しるべです。建立は明和3年(1766)で今から220年前になり、旧村の道しるべの中では最古のものです。
市指定史跡 中郷長坂の国道17号沿いに、旧沼田道(白井方面)と旧真田道(北牧方面)の分岐点があり、ここに高さ64cm、幅92cm、厚み60cmばかりの本体が北向きに台石の上に据られています。
「牧者もく 白衣ははしろゐ 宇つ里かはれる俚言いかゝはせん 志くるゝや左ハ白井右ハもく 幻亜」と刻まれています。
俳諧の道しるべは県下でも数少なく貴重なものです。建立は、小淵幻亜で慶応元年(1865)ころと思われます。
市指定史跡 子持神社境内西側石垣上に、高さ130cm、幅45cm、厚さ25cmばかりの碑が東向きに、自然石の上に建っています。万葉歌は読み人知らずで藍沢無満の筆跡になるといいます。
万葉仮名は、深々と彫られています。
建立は万延元年(1860)ころで、建碑のリーダーは郷土の文人、
らです。
楓にことよせて、大胆に愛をなげかけた素朴な表現ですが、くったくのない、明るく、健康的な万葉人の心を思わせる相聞歌といえます。読み方は次のようです。
子持山若楓の
紅葉まで寝もと吾は思う
汝はあどか思ふ
市指定史跡 雙林寺本堂裏に、渋川郷学の祖・儒者・画家である山崎石燕の墓があります。
石塔は、高さ1mの五輪型で「心操石燕居士」と刻まれています。
石燕は、宝永6年(1709)に本村北牧に生まれ、幼い時から学を好み下仁田の高橋道斉に学び、後に江戸に出て井上金峨に学び数年後帰郷して塾を開きました。
町田延陵、角田無幻と共に名声が近隣に高く、著書に「石燕一家言」「蒙求標題」があります。
狩野派の絵画も学び、極彩色の気品ある人物画を得意とする。天明5年6月3日77歳で没した。
市指定史跡 この塔は、旧沼田街道西通り沿い上白井伊熊の御前神社境内に建立されている円形の芭蕉句碑です。
「しばらくは花の上なる月夜かな 芭蕉翁」と刻まれています。元禄元年(1688)「初蝉」に収められている句です。
建立者は、渕ノ上の小渕南交で、南交は蒼々庵と号し白井鳥酔の流れをくむ松露庵三世烏明四世雨什の指導を受けています。碑の中央に「斎坊塔」とあり、右に芭蕉の句が、左に先師烏明の時雨の句を刻み、裏面に南交自身の四季吟を添えています。烏明の書といわれていて、花塚と命名されています。建立は、文化13年(1816)です。
市指定史跡 この良夜塚は、旧沼田街道西通り上白井南谷蔵王堂の脇道に位置しています。
高さ80cm、幅56cmの爪型をした芭蕉句碑本体が、台石の上に据られています。「雲を里 人乎休むる月見可那 芭蕉翁」と刻まれています。
建立者は藍沢無満の書で生方可交が安政3年(1856)ごろ建立したものです。
雲が動いている間から時折顔を出す今夜の月は、人を立ち止まらせてしまうような美しい月だなあという意味でしょうか。
また、傍ら右側に無満の句碑「去来ら婆我が友耳せむ眠る山」が弟子たちによって建てられています。赤城の山に出てくる月を三碑あるここ”良夜塚”で眺めた昔が偲ばれます。
市指定史跡 この芭蕉霊神塚は玉ヶ岡の玉山神社参道に位置し、高さ133cm、幅69cmの芭蕉句碑です。
真ん中に「芭蕉霊神」とあり、その両側に「馬遠曽幣詠類雪能阿志多可難」と刻まれています。
建立者は、当地の俳人後藤錦秋、生方可交ら玉ヶ岡連中らで、安政3年(1856)ごろ建立したものです。この句碑のそばに、多伝園三世生方可交は「花の雪積むや可た免で玉ヶ岡 可交」と自碑を建立。当地区の俳諧の先達でした。
”芭蕉霊神 馬をさへながむる雪のあしたかな”馬でさえ、眺める雪の朝はきれいだなという意味でしょうか。
市指定史跡 長坂の翁塚は、旧沼田街道西通り沿いの伊熊方面から登りつめたところに位置し、高さ102cm、幅95cmの芭蕉句碑本体が、台石の上に据えられています。
表面中央に大きく”翁”と大書、下に芭蕉句「木の下に汁も膾も桜かな」と刻まれています。
建立者は、中郷中井の楓堂小渕幻亜で、元治2年(1865)に建立したものです。別名「桜塚」ともいいます。
満開の桜花の下で、酢づけで調理した肴や汁を並べての花見は本当にすばらしい。”花より団子”とはこのことでしょうか。
裏面には、幻亜の句「与類としや花見る眼にも涙宇く」と藍沢無満の多伝園二世を継いだが、孤独のわびしさを吟じています。この3年後に74歳で中郷中井にて没しています。
市指定史跡 画伯根元常南は、初めの名を匡輔といい常陸の人です。絵画を好みよく描いたが、別に師匠はなく元画(中国)を手本としていました。若年にして、京都・江戸や諸国を巡り、仙台において桂月上人をよき友とし、古梁禅師の禅風に接して感化を受け、文化元年(1804)ごろこの地において画集を発表しました。当地において、東斎・梅関を得て愛弟子としました。鎌倉の建長寺誠拙禅師に就いて修行し、髪を剃って名を言成と改めた、巨匠梅関が師事せるだけあって、常南は余程の名手であったらしい。文化8年(1811)上毛に旅行し、雙林寺に泊まり涅槃図(村指定文化財)を愛弟子の梅関の応援を得て完成させました。
更に、同寺の山門の格天井及び、榛名神社の招へいに応じて同神社山門の格天井及びその外に装飾画を描いている間に発病し、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812)5月20日、49歳で没しました。
梅関は飛脚でこのふ報を仙台に知らせ、桂月上人を介して墓碑銘を古梁禅師に願い、墓塔をこの寮の庭先に建ったのです。
石塔の高さ102cm、幅37.5cm、厚み24cm、総高160cmで「常南言成之墓」と刻まれています。
市指定史跡 白雄の句碑は、北牧八幡の旧越後草津道から少し北に入った三本辻に位置し、小さな溜まり池がありその端に、高さ96.5cm、最大幅60cmの本体が南向きに自然石の台石に据えられています。
「宇羅於母天、木農葉うかべる佐飛江閑那 白雄坊」と自然石に刻まれています。
この句碑の作者は、加舎白雄で寛政3年(1791)40歳の時の作で自筆と言われています。
白雄は、志羅雄坊ともいって信濃国の人で、関東一円に知られた俳人であるので、同系統の牧の俳人たちが寛政12年(1800)に建てたものです。
”裏表木の葉浮かべる冷さかな”冷え冷えとした初冬のある日、旅の白雄は横堀宿から近道を通って、北牧八幡の弟子宅を訪れる際、道傍らの清水の溜まり場で一句吟じたもので、「さびえ」のさは冷えを強めるための接頭語です。
市指定史跡 利根川と吾妻川の合流点、河岸段丘である自然の要害に築城された平山城である。鎌倉時代の中ごろといわれ、上野守護上杉氏の配下で、鎌倉長尾の流れをくむ長尾氏が入城、築城の完成は、長尾昌賢時代と思える。
武田信玄・勝頼、上杉謙信(越後長尾)に属し、後、滝川一益、北条氏政・氏直に従い、天正18年(1590)豊臣秀吉の部将前田利家・上杉景勝に攻略された。徳川家康関東入府後、本多広孝が封ぜられ、後、元和10年(1624)廃城。本丸、二の丸、三の丸と内堀・外堀の遺構があり、城下町白井・吹屋の家並みが散見できる。
市指定史跡 三国街道沿いの一里塚のうち、横堀宿にあるものの1つ。一里塚は主要な街道に距離の目標として築いたもので道の両側に左右一対で設置されるが、現在は西側の塚は消滅し、東側のみ残されている。
東西15m、南北8m、面積108㎡で、中央にはケヤキ(目通り周り4m)が植えられ、木の下には石祠(せきし)、石碑、石灯籠、馬頭観音が置かれている。
市指定天然記念物 雙林寺の境内、座禅堂東側に、根元の周囲3.5m、地上からの高さ10m、枝張は幹から東方6m、西方4.6m、南方4.8m、北方4.7mの銀もくせいがあります。
花は小白色で、十月頃に開花し香気は遠方まで漂います。元禄年間に山門と座禅堂の再建時に植えたと言い伝えられ、樹齢約300年と推定されています。
市指定天然記念物 国道353号沿い北牧の横山宅庭先に、樹齢400年といわれるカヤの大樹があります。根元周囲3.4m、地上13mの高さで、樹冠は東西10m南北8mです。
今から約200年前の天明3年(1783)7月8日浅間山が大噴火し、その熔岩が泥流となり吾妻川へ流れ出して流域の田畑や民家を巻き込み下流の子持村や、渋川市金島・古巻付近までその被害を与えました。
この時、北牧の吾妻川岸辺にあった民家も流失したが、この木によじ登り多くの人々が難を逃れたのです。
その後、だれ言うことなく「人助けのカヤ(へだまの木)」と地域でユーモラスに呼ばれているのは、このカヤの木の実と葉っぱが異様なオナラの臭いがすることにあります。そこで人々は「へだまの木」と呼ぶのです。
市指定名勝 子持火山は、富士山と同形の成層火山で、かつては遠く長く裾野を引いた美しい山でした。突然上半分が爆裂を起こしふっとび、カルデラができ、中央火口丘が噴出して二重式火山になりました。その後、長い年月の浸食作用をうけ、削られ肉をそがれて骨格がむき出しになりました。火山の生成を知る上で貴重な山です。
火山岩頸の獅子岩は、子持火山が活動していたときにマグマがつまって凝固したもので、その後の浸食によって回りの土砂が流出して、火口(火道)につまったマグマが柱となって残りました。この岩頸は日本で最も見事なものです。
市指定名勝 屏風岩は、子持火山の放射状岩脈の一つです。獅子岩を中心に半径1.5kmの円の中に80体ほどが集中しています。岩脈の生成は、マグマが地層を切って、あるいは他の岩石中を垂直に板のような形で貫入したものなどで、厚さが、1~7m、平均3~5m位あります。地表に現れている部分は、屏風のようにそそり立っています。