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最終更新日:2010年4月1日

旧赤城村地区の指定文化財

石像不動明王立像(せきぞうふどうみょうおうりゅうぞう)

  • 石像不動明王立像国指定重要文化財
  • 昭和38年2月14日指定

「宮田のお不動様」と呼ばれる「石造不動明王像」は国の重要文化財に指定されています。墨書によると鎌倉時代にあたる1251年に、院隆、院悦両仏師によってつくられました。一目諦視の忿怒の相で、右手に智剣、左手に羂索をもったほぼ等身大の造像です。力強いながらも温厚な雰囲気をただよわせており、優美で重厚な鎌倉期の特徴がうかがえます。

「お不動様」は、悪魔を降伏させ、行者を護り、知恵と長寿をさずけてくれるという不動明王として、多くの信仰を集めました。現在は不動寺境内の絶壁の洞穴に安置され、年に一度1月28日の縁日に拝むことができます。

上三原田歌舞伎舞台(含舞台装置・操作)(かみみはらだかぶきぶたい)

  • 上三原田歌舞伎舞台国指定重要有形民俗文化財
  • 昭和35年6月9日指定

全国に例を見ない特殊な機構を持つ上三原田の歌舞伎舞台は、字高井の大工永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819)、字大門の赤城山天竜寺内に建築したと伝えられています。

上三原田の歌舞伎舞台には、4つの特徴があります。第1にガンドウ機構、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにします。第2に遠見機構、舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せます。第3に柱立廻式廻転機構、平舞台いっぱいの回転部を回転させます。第4にセリヒキ機構、二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せりおろすもので、国内はもとより世界にも例を見ない珍しいものです。

瀧沢石器時代遺跡(たきざわせっきじだいいせき)

  • 瀧沢石器時代遺跡国指定史跡
  • 昭和2年4月8日指定
  • 平成16年2月27日追加指定

赤城歴史資料館の一角に展示されている巨大な石の棒――祭祀または呪術的なものという大方の見方ですが、実際のところ謎はいまだに解けないままです。見る者の想像力をかきたてる大石棒は、大正十五年、滝沢石器時代遺跡から出土したもので、博物学者岩澤正作氏らによって発掘されました。

自然石が並べられた址、つまり住居址と配石遺構が確認され、周辺からはさまざまな遺物が出土しました。先述した長さ1mもの大石棒は第四号址から見つかりましたが、他にも石剣・岩版などの祭祀用具、石鏃・石匙・打製石斧・石皿・磨石などの実用品など、石製品が多数発見されて話題を呼びました。本県考古学の端緒を開いたとして評価された本遺跡は、昭和2年、国の史跡に指定されています。

敷島のキンメイチク(しきしまのきんめいちく)

  • 敷島のキンメイチク国指定天然記念物
  • 昭和28年11月14日指定

黄金色の縦縞が美しく輝く国の天然記念物の竹です。日本の竹は、約60年ごとに花を咲かせ、その群落は一斉に枯死してしまうことがあります。このキンメイチクも昭和43年に開花しましたが、氏子の方々と関係者の尽力により、美しい今の姿をとどめているのです。

津久田の人形舞台(附人形)(つくだのにんぎょうぶたい)

  • 津久田の人形舞台県指定重要有形民俗文化財
  • 昭和26年10月5日指定

桜森八幡宮境内にあります。人形芝居が始められたのは享保8年(1723)頃と言われています。舞台は歌舞伎兼用舞台として建てられ、前面1軒幅の床板が撤去でき、人形舞台としても使用できるよう工夫されています。舞台奥の床が2尺6寸(約86cm)上げられ、造りつけ3重になっているほか、奥壁、左右壁(1軒幅)にガンドウ返しが設けられ、折畳式底束がつけられた珍しい造りの舞台です。

長井坂城跡(ながいざかじょうあと)

  • 長井坂城跡県指定史跡
  • 昭和55年9月16日指定

北は永井の沢の急崖、西は利根川の断崖に望む崖端(がけばた)城で、南北260m、東西約180m。

築城年は不明ですが、「加沢記」に、永禄3年(1560)上杉謙信が関東に出馬し、沼田城を直攻せずここに陣を張り、降伏した沼田万鬼斎(顕泰)を引見したとあるので、それ以降の築城と考えられます。

三原田諏訪上遺跡瓦塔設置仏教遺構(みはらだすわがみいせきがとうせっちぶっきょういこう)

  • 三原田諏訪上遺跡出土の瓦塔・瓦堂県指定史跡
  • 平成15年3月25日指定

瓦塔設置仏教遺構は、掘り込み地行が行われていたことによって、瓦塔の設置仕様の様子が推定できる遺構がよく残っていました。古代の上野(こうずけ)の村落における仏教文化の定着と進行の様子がわかる遺跡です。

写真は同遺跡から出土した瓦塔(左・がとう)と瓦堂(右・がどう)を復元したものです。

桜森のヒガンザクラ(さくらもりのひがんざくら)

  • 桜森のヒガンザクラ県指定天然記念物
  • 昭和26年10月5日指定

樹高約12m、目通り径4.8m、樹齢400年と推定される。

現在は数本を残すのみですが、かつて八幡宮境内には桜樹が多く、桜森八幡宮と呼ばれ桜の名所として親しまれていました。

紅色の濃いしだれ桜は各地に見られますが、枝が直なものは県下でも珍しく、貴重な名木といえます。

溝呂木の大ケヤキ(みぞろぎのおおけやき)

  • 溝呂木の大ケヤキ県指定天然記念物
  • 昭和43年5月4日指定

鎮守諏訪神社の境内にあり、高さ38m、目通り9m、樹齢約800年。

以前は境内に数本のケヤキがありましたが伐採されてこの1本だけがご神木として残されました。

神社の東には、五料・沼田を結んだ沼田街道が通り、神社付近には溝呂木宿として栄え本陣・問屋をはじめ旅籠・煮売家(茶屋)などが軒を並べ旅人の往来も盛んでにぎわったようです。

ヒメギフチョウ(ひめぎふちょう)

  • ヒメギフチョウ県指定天然記念物
  • 昭和61年3月7日指定

ヒメギフチョウはアゲハチョウの仲間で、羽全体に黒と黄色の縞模様、後羽に朱色の帯があります。その可憐な姿から「春の女神」、氷河期時代の近縁チョウの化石から「生きた化石」などと呼ばれ人々に愛されています。

関東地方では北赤城山のみに生息する貴重なチョウで、昭和42年に絶滅したと言われましたが、昭和56年頃再び見られるようになりました。

その後、地元の人々や小学校、ヒメギフチョウの保護団体、旧赤城村及び県の教育委員会の努力が実を結び生息数もだいぶ増え現在に至ります。

庚申塚の道しるべ(こうしんづかのみちしるべ)

  • 庚申塚の道しるべ市指定重要文化財
  • 昭和45年3月20日指定

安山岩製。円錐台形の上面を磨き真中に「心」字、そのまわりに方位、その外側に「赤城三里半、日光十八里余、前橋三里半、高崎六里余、榛名六里、沼田五里半」と行先六方面を放射状に刻み、外周に「よつの方 むつのちまたに わかるれど こころしづかに たづねてぞゆけ」と時計回りに道歌を彫った大変珍しい道しるべです。

角田無幻道人の遺品(つのだむげんどうじんのいひん)

  • 角田無幻道人の遺品市指定重要文化財
  • 昭和45年3月20日指定

時より教学に励む傍ら、書に親しんだ無幻は、上州に来遊した江戸の書家であり儒学者の東江源鱗(とうこうげんりん)に入門、書法に励んだ。

寛政4年上洛後、たまたま書き与えた商家の看板が庭田大納言の目にとまり大納言のすすめにより光格天皇に千字文を奉呈した。以後、夢幻の書名は洛中に広まった。

道人の遺品は、墨画・書幅・愛用のみご筆など書に関するものの他、日常用いた法衣・袈裟・錫杖などがある。

溝呂木の御輿(みぞろぎのみこし)

  • 溝呂木の御輿市指定重要文化財
  • 昭和46年3月26日指定

諏訪神社の境内摂社八坂神社の御輿は、黒漆仕上げの精巧な造り。屋蓋の組木に「宝暦三癸酉正月 大工北牧後藤 八崎村 天下長久」と墨書があるため、八崎(北橘村)の八坂神社(現赤城神社摂社)の御輿として北牧の大工後藤氏が宝暦3年(1753)に製作したものであることが分かっています。一説によれば、伝染病の流行により壊されそうになった御輿を、溝呂木の狩野六兵衛氏が譲り受け、その後溝呂木に寄進し、摂社八坂神社の御輿となったといわれています。しかし現在言い伝えを裏付けるものは見つかっていません。

宮田の石灯籠(みやだのいしどうろう)

  • 宮田の石灯籠市指定重要文化財
  • 昭和46年3月25日指定

宮田神社境内の東崖際にあり、総高約115cm、安山岩製。

笠の勾配、ふくらみ、中台に刻まれた竪連子(たてれんじ)、中台下面、基台に刻んだ連弁などに室町期の特徴がよくでています。

赤城護国神社社殿(あかぎごこくじんじゃしゃでん)

  • 赤城護国神社社殿市指定重要文化財
  • 昭和49年7月25日指定

赤城神社の本殿の左後にあります。

神社の宝物庫かと思われるような間口2.1m、奥行2.16m、高さ3.3m、瓦葺、入母屋照破風土蔵造の小さなこの建物は、敷島小学校(現津久田小学校)の奉安殿であったものです。

屋根は面積に合わせた特注の藤岡瓦、壁は中に金網を塗り込め、表面は大磯産の黒石を用いた洗い出し仕上げ、その他の資材は旧赤城村産を用い、職人は全て旧赤城村人という、珍しい近代化遺産です。

勝保沢の十一面観音堂(かつぼさわのじゅういちめんかんのんどう)

  • 勝保沢の十一面観音堂市指定重要文化財
  • 昭和56年5月1日指定

快中山宗玄寺境内に入ってすぐ左手には、寛政10年(1798)に建てられた十一面観音堂が残されています。勝保沢出身の姫路藩士石本勝左衛門勝長が、少年の頃出世を夢みて江戸に上り、みごと夢が叶ったことから、感謝の意を込めて建てさせたものです。以来この観音様は出世観音と呼ばれ、広く近隣の人々の崇敬を集め、大切に祀られています。 お堂は名工として知られた星野幸右衛門の作で、江戸期建築の相をよくあらわしています。銅板葺入母屋造りで、各所に彩色された彫刻が施されています。もとは字下りにありましたが、明治31年(1898)現地に移築されました。

三原田の宝篋印塔群(みはらだのほうきょういんとうぐん)

  • 三原田の宝篋印塔群市指定重要文化財
  • 昭和56年5月1日指定

宝篋印塔は本来、過去、現在、未来の三世にわたる、諸仏の全身舎利を奉蔵するために、宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだにきょう)を納めた供養塔で、鎌倉時代から多く造られ、墓塔としても使用されてきました。

この宝篋印塔群は、三原田氏の墓塔または供養塔とも考えられるが詳細は不明。

勝保沢の太々神楽(かつぼさわのだいだいかぐら)

  • 勝保沢の太々神楽市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和46年3月26日指定

諏訪神社の春の例祭には、氏子若衆が里神楽を奉納します。神楽奉納の歴史は比較的新しく、大正時代(1912~26)の初めに、富士見村市之木場の石尊宮氏子から伝わったといわれています。神楽講は埼玉県の御嶽神社所属の豊穂会に属しています。このことから当地の御嶽神社の人々が伝授を受けたものかと思われます。 神楽は境内南西の神楽殿にて祭式舞7座、愛嬌舞12座が舞われ、ゆるやかな動きが特徴的です。神楽面の一部は、歴史資料館に委託保管されており、展示を見ることができます。

津久田の獅子舞(つくだのししまい)

  • 津久田の獅子舞市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和46年3月26日指定

毎年8月上旬の八坂神社の例祭では、八坂神社前、頭屋(行事の中心役)の庭、八幡宮前の3箇所で、中組の若衆による獅子舞が披露されます。獅子頭は牡・牝・子の3種で、目尻はつり上がっていますが、全体に鹿を思わせる相です。このことからこの獅子舞は北方系と考えられています。舞は5種類あり、笛と太鼓のお囃子の他、真中のひとつには唄が入ります。全体としてゆるやかで優美な舞いです。

獅子頭は通常、歴史資料館で見ることができます。江戸初期に由来するといわれ、長い伝統がしのばれます。

三原田の獅子舞(みはらだのししまい)

  • 三原田の獅子舞市指定重要無形民俗文化財
  • 昭和58年5月16日指定

三原田字諏訪上にあった諏訪神社の氏子が8月27日の例祭に奉納したもので、昭和13年に中絶し、保存会によって昭和57年に復活しました。

現在では興禅寺、八幡宮の2カ所で舞います。

津久田の獅子舞とは少々異なり、まず獅子頭は張子製で角がなく、いわゆる獅子鼻の唐獅子型で、呼び方も牡牝は同じですが子ではなく法眼といいます。頭には牡は赤、牝は青、法眼は黒の御弊をつけます。また、舞子は少年で服装は同じですが、手にした撥で腰鼓を打ちながら舞います。2人の道化(成人)がつくのも違います。舞は”しんぷり”、”おいざさら”、”ばみ”の3種があります。

津久田鏡の森歌舞伎舞台(つくだかがみのもりかぶきぶたい)

  • 津久田鏡の森歌舞伎舞台市指定重要有形民俗文化財
  • 昭和58年1月20日指定

赤城神社の境内にあり、間口5間(約10m)、奥行5間半、入母屋造の固定式農村歌舞伎舞台です。

内部は平舞台・二重・三重の3部分に分けられ、平舞台左右の板壁は、開演時外に倒され、舞台面を広げるガンドウ機構になっています。

開演時には舞台前面の左右に下座(はやし、義太夫を語る席)がそして下下座(正面左側)には花道が付けられます。

この舞台は、残されている「舞屋木数覚之帳」などから明治2年(1869)に建築されたものと推測されます。

津久田城跡(つくだじょうあと)

  • 津久田城跡市指定史跡
  • 昭和45年3月20日指定

北は沼尾川、西は利根川に臨む急崖上にあり東西約300m、南北約130mの並郭式の崖端(がけばた)城で、北西隅に本丸、その南に二の丸、東に三の丸、外郭と続く縄張の要害でした。

築城年は不明ですが、古文書や城郭図から永禄(1558~68)と考えられます。
天正6年(1578)以降、北条・真田両氏の接点となった長井坂城の後詰(ごづめ)の城として、津久田城はしばしば戦火にさらされます。その意味でこの城は歴史的に重要な城だったのです。

角田無幻道人の遺髪塚(つのだむげんどうじんのいはつづか)

  • 角田無幻道人の遺髪塚市指定史跡
  • 昭和45年3月20日指定

無幻(光劉・こうりゅう)は寛保3年(1743)下野田村(現吉岡町)の修験宗華蔵寺の亮観の二男として生まれました。幼少時から教学(宗教学)を学び衰退した修験宗の興隆に努め、中年の頃招かれて京都に上り、大善院の住職となり、兄良沿えと共に修験宗門弟の講学所森学寮の創立にあたり、門弟の指導に尽力しました。

また、書家としてもその名を知られ後に利根の賢和(けんな)、吾妻の延陵(えんりょう)と共に「上毛の三筆(じょうもうのさんぴつ)」と称されました。

文化6年(1809)京都で没し、真如堂に葬られましたが、上州の弟子たちが遺髪を持参し琴平山中腹(夢幻が建てた寂照山という寺の跡)に遺髪塚を建てました。

いなり塚古墳(いなりづかこふん)

  • いなり塚古墳市指定史跡
  • 昭和45年3月20日指定

利根川左岸の河岸段丘の平坦面に造営された後期古墳です。

墳丘煮は河原石による葺石(ふきいし)ならびに幅1mほどのテラス面が見られ、墳丘径20mの2段築造の円墳と考えられます。

埋葬主体部は、現存全長6.14mの自然石乱積(らんせきつみ)の袖無型横穴式石室(そでなしがたよこあなしきせきしつ)で、石材には輝石安山岩(きせきあんざんがん)の転石や懐石が使用され、壁面には赤色顔料の塗布が見られます。

その築造年代は6世紀中葉の頃と考えられ、利根川上流域の後期古墳の典型例といえ貴重な保存例でもあります。

不動山城跡(ふどうやまじょうあと)

  • 不動山城跡市指定史跡
  • 昭和55年3月6日指定

台地の西端に東西約50m、幅約30mの本丸を設け、東に二の丸、三の丸と続けた東西約250m、幅約100mの並郭式崖端城(へいかくしきがけばたじょう)で、今も腰郭・空堀などまでよく残っています。

築城年代は、古文書や城の構造からも永禄(1558-69)頃と推測されます。

天正8年(1580)真田氏の大進行の時、先陣の海野中務大輔(うんのなかつかさだいすけ)が700騎を率いて攻めますが、攻めあぐんでいると大将真田昌幸から不甲斐ないと叱られ、全騎下馬して突撃しようやく陥した、と「加沢記」に記されるほど難攻不落の城でした。

千石稲荷神社(せんごくいなりじんじゃ)

※指定文化財ではありません

千石稲荷神社昔、千石山には「使わしめ」とされる白狐が棲むといわれていました。そのことから天文16年(1547)源義康(伝不明)という人が奉斎し、後、天保12年(1841)京都の伏見稲荷を勧請したと伝えられています。流造(ながれづくり)の小さな本殿は、形の整った美しい建築です。 やがて天明の頃(1781~89)伝左衛門という人が絹1疋を盗まれたが、当社の霊験により盗品が戻ったという伝説が生まれ、五穀豊穣のほか、盗品除けの神としても崇敬を集めるようになりました。

お問い合わせ先

生涯学習部文化財保護課

住所:群馬県渋川市北橘町真壁2372番地1

電話番号:0279-52-2102

ファクス番号:0279-52-4008

お役立ち情報

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